こんにちは 東京・千葉で活動しております、野沢ゆりこです。
4月も半ばになりました。入学や進級、就職や異動、転居など新生活がスタートした人も多いことと思います。新しい環境や未経験なことへのチャレンジ、新しい人間関係は、誰にとっても不安や緊張の連続だと思います。
でもこれは自然な反応で、私達人間はいつもと変わらない環境で、いつも同じ行動をすることが、一番リスクがなくて安全だと細胞レベルで感じるように出来ています。ですから環境の変化には不安や緊張はあって当然と思って、少しずつ慣れていけるといいですね。
今回は、傷つくのが怖い「回避」な人々のことを書こうと思います。
私達が生きていく上では、やったことがないことをやる時、自分には荷が重いこと、難しそうだけれど、やらなければならないこと、あまり好きじゃない人と関わらなければならない時など、困ったなあ、嫌だなあと思うことが出てきますよね?
そんな時に、それでもとりあえずやってみようと前向きになれる人と、最初から避けることしか考えない人、グズグズ悩んだあげく、結局避ける方を選ぶ人がいます。
先ほども書いたように、未経験のことをやる時は誰でも不安や緊張、恐怖を感じるものです。避けたいという気持ちはあっていいと思うのですが、いつも避ける方を選ぶ生き方を続けていくとどうなるのでしょうか?
「回避性パーソナリティ」と「回避型愛着スタイル」
「回避な人」という言い方ですが、これは「回避性パーソナリィ」と「回避型愛着スタイル」の2つを指しています。どちらも回避がつきますが、この2つは似ているようで違います。「回避性パーソナリィ」とは、極端に傷つくことを恐れるがゆえに、本当は人との親密な関係になりたいけれど怖くて避けてしまう。ジレンマがあって苦しい人のことで、「恐れ・回避型愛着スタイル」が基になっています。
一方、「回避型愛着スタイル」とは、そもそも人を求める気持ちが薄くて、自分の興味のあることしかしない醒めたクールな人といった感じで、ジレンマがないので悩まないといった特徴があります。
「愛着障害」の著者、岡田尊司先生によると、昨今では「回避型愛着スタイル」の傾向が強まり、「回避型の回避性パーソナリティ」のタイプが珍しくないと著書の中で仰っています。
このような人は、何事にも醒めていて人にも関心が薄いものの、どこかで人を求めているがとても傷つきやすいのです。このような人が「回避」から抜けるのは簡単ではありません。
もう二度と傷つきたくない
実は私も「回避な人」なのです。以前の私の口癖は、「面倒くさい」と「嫌だなあ」で、しょっちゅう言っていたと思います。
今は子育ても卒業しているので昔の話になりますが、振り返ってみると、恋愛も結婚も就職も子供を産み育てることも、欲しいし求めているけれど、でも面倒くさい!本当は嫌!でも避けられない!と悩んでいたと思います。パートの人間関係や子供の習い事での役割やPTAなども面倒くさいし嫌、でも断れないからやらざるを得ないとなると、腹が据わる一方ですごいストレスを感じました。
この「面倒くさい」って実は「怖い」ということなのです。
不安が強く傷つきやすいから、傷つくことが怖くて避けたいのです。
そうなった理由は、幼少期の親との関わりが大きく影響しています。
幼少期に親からの愛情や世話が不足していると、オキシトシンの分泌や受容体の数が少なくなるという研究結果があるように、人と親しく交わること、子供を育てることに喜びを感じなくなってしまいます。
私の場合ですが、幼少期、父は怖い存在で、父の強い感情や冷たい言葉に傷ついてきました。家で自由に発言したり安心して寛いだりできませんでした。その時の経験から、人は恐ろしいもので自分を傷つけてくるものと思い込んだのです。あの時みたいに、もう二度と傷つきたくはなかったのです。父に近づけなかったように人は遠い存在で、何かするたびに父に拒絶されたように、自分から行動すると必ず嫌な気持になると思っていました。
自分は無力でダメな存在
当時の私は、父や家族の現実を見ないように感じないようにして自分を守ってきました。父が怖いのは、自分がダメだから。だから私に怒っているのだと結論づけました。
父に言い返すことも闘うことも逃げることもせずに、ただ受け入れていたのです。
そんな自分を無力だと思っていました。
大人になっても劣等感、欠乏感、自己否定が強く、そんな自分を恥じて隠していました。
自分がバレないように取った対策は、人と距離を取ること、いい人のふりをして人と関わること、そして失敗を避け、恥をかくことを避け、責任を取ることを避けることでした。
失敗するのは嫌だ。人から見下されるのは嫌だ。人から嘲笑され、嫌われるのも嫌。とにかく避けたい。傷つきたくない。そう思って避けてばかりいると、次々に避けたいものが増えます。何もかもが嫌なことばかりになりました。
その頃の私は毎日が憂鬱で、自分のことが嫌いでしたし、人のことも嫌いでした。いつも自分を偽って人と関わっていたからです。
万能なあの人みたいになれたら傷つかない?
避けることも逃げることも出来ない状況がやってくる度に思ったのは、「もっと自分が万能であれば良かった」でした。自信満々だったらストレスなんて感じないだろうに。マルチタスクなあの人みたいになるには、今からでも勉強するしかないのか?と考えていました。
「自分以外の自分、万能な私になりたい」、これは自己否定でした。今の自分がダメだから別の自分になりたい。これでは違う自分になればなるほど元々の「ダメな自分」を強く意識することになり、自己否定の強化行動なのです。
そもそもいつも何に対しても傷つかない人になることなどできるでしょうか?
それは絶対に無理です。たとえ万能な自分になったとしても傷つくことは避けられません。相手があることなので、裏切られたり嫌われたりして傷つくことは誰にでも起こります。
真の問題は自己否定と敵対的な依存心
私の生きづらさの原因は、自己否定と親への敵対的な依存心でした。
私は両親を恨みながら心理的には依存していたのです。
私がこんなにダメで無力なのは親のせい。私はダメで無力だから傷つきたくない。
この心のありようが世の中に投影されていました。周囲の人たちに両親を投影して、私を嫌わないで!私を傷つけないで!と受け身になっては避けるという生き方を自分で選んでいたのです。
問題は自分が作り出しているといいますが、生き方はいくらでも選べるのに、私は親に執着する生き方を選んで、人を信じないで自分のことも無力にしていたのです。
向き合うべき問題は、万能な自分になることではなく、親に大切にされない惨めさや自分を表現したら見捨てられる孤独の恐怖、親への恨みを生きる原動力にする生き方、自分を無力にして嫌なことを避けて自分を守ろうとする、自分を無力にするメリットと向き合うことでした。
セラピーは親との心理的分離の儀式
世の中には、失敗を恐れないでチャレンジできる人、臆することなく人に近づいて、率直に言いたいことが言えるという人がいますね。
「何とかなるさ」「私は大丈夫」といった根拠のない自信があり、着実に成長して幸せを掴む力がある人と言えますが、このような人は親との愛着が安定した人で、心に安心安全の感覚がある人です。親にありのままの自分を受け入れてもらえた人で、反抗期があって親と心理的分離が出来ている人だと思います。
逆に、幼少期に親からありのままの自分を受け入れてもらえなかった人は、人を恐れ、チャレンジを恐れ、失敗を恐れ、傷つくことを恐れるようになります。
過保護、過干渉、全く見てもらえない(ネグレクト)、否定ばかりされる、支配的、共感性のない親に育てられた人はというのは、心に安心安全の感覚がありません。
どうせ拒絶される、失敗しても誰も助けてくれないと思っているのです。
そのような人は、親に受け入れてもらえる従順な子、親にとって都合のいい子、あるいは自分の感情感覚を感じないようにして孤独に自分を守ってきた人が多いと思います。
けれど私を含めそのような人が、この先ずっと安心安全の感覚がないままなのか、成長も出来ないで幸せも掴めないのかというと決してそうではありません。
セラピーは、親から貰うはずだった愛着=安心安全の感覚を体感する場です。その後は愛着を自分で育てて心理的に成長していく人がたくさんいます。そしてセラピーは、本来は反抗期にするはずだった親との心理的分離の儀式のようなものなのです。
傷つくことを「避ける」生き方は、人生迷子になる
今振り返って思うことは、面倒くさいなと思いながらやっていたことの一つ一つが、実は自分を成長させてくれたということです。その時に繋がった人とは今でも友人です。今の家族があるのも避けなかったからに他なりません。
ストレスが大きすぎたのは問題でしたが、セラピーをもっと早く受けていたらとも思いますが、あの時に逃げなくて良かったのだとようやく自分を肯定できるようになりました。
傷つくのが怖いあまりに嫌なことを避ける生き方は、嫌なことが次々と目の前にやって来る人生になります。一つ避けてもまた次の嫌なことが現れて、それを避ける為に労力を使うだけの人生になり、何も得ることが出来ません。この生き方を続けていくと人生迷子になります。
傷つきそうな嫌なことも、行動してみると意外と簡単だったり、あるいは案の定、失敗したり恥をかいたり傷ついたりするでしょう。それでも立ち上がる度に、成功体験を積み少しずつタフになっていきます。そのうちに自分も中々やれるなと思えるようになります。これが「自信がつく」ということなのです。成長の為には、失敗体験も成功体験も両方必要なのです。
好きなこと、やりたいことは何ですか?
失敗体験や成功体験も大切ですが、もっと大切なのは、これは嫌いだけれどこれは好き、これがやりたいという欲求です。
「回避」な人は、幼少期に欲求を満たせた経験や楽しい経験があまりありません。
親に自分の欲求を出せなかったり、親の期待にだけ応えて来たり、自分の欲求をコントロールされたりして諦めてきた人が多いのです。大人の今も自分の欲求が何かわからない人もいます。けれど人は欲求があるからこそ、目の前にある嫌なこともやろうという意欲や意思が出てくるのです。ですから今からでも自分の欲求を知り大切にすることです。
あなたが好きなことは何ですか?やりたいことは何ですか?
傷つくのが怖い「回避」な人は、人生迷子になりやすいのです。「回避な人」が生き方を変えるためには、未来の自分をイメージしてこのままではヤバイと危機感を持つことです。この生き方は、自分の成長や幸せを放棄していることであり、自分が自分を一番傷つけていると私は思うのです。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。