こんにちは。
心理セラピストの杉原京子です。
もう4月ですね。今年は例年よりも暖かく桜の開花も早いですね。
外を歩いていたら、歩道に桜の花びらが落ちているのを見て、とても風情を感じます。
この時期だけ味わえるこの風情をせいいっぱい味わおうと思います。
もちろん、咲いている桜も見に行こうかなと思案しています。
さてさて、今回のコラムは、人から頼まれたら断れない、嫌なのに引き受けてしまっている。そんな心理について書きます。
なぜか人のお世話が止められない、嫌なのに断れずに引き受けてしまう、自分の意見を言えない、そんな経験はありませんか?
例えば、
・仕事の依頼で理不尽な無茶ぶり案件や面倒くさい案件ばかり引き受けてしまう
・友達からいつも解決しない相談ばかりされる、愚痴の聞き役だけをしてしまう
・親の世話や介護を全部引き受けてしまう
・困った顔を見ると何とかしたくなる
本音では嫌だと思っているなら断ればいいのに、いい顔して断れず引き受けてしまったり、どんなことでも自分から「やりましょうか」と引き受けにいったりと、自分から引き受けにいってるのです。
もちろん、引き受けることがダメなことではないし、子どものように嫌だからと言って嫌な事を全部断わればいいということでもありません。
自分がやりたい、引き受けたいと思ったことは引き受けてもいいのです。
ただただ、あまりにも理不尽だったり、キャパオーバーしていたり、全部引き受けないといけないと思い込んでいる場合に問題があるのです。
では、どうして自分から嫌な事やお願いされたこと全てを引き受けにいってるのでしょうか?
自分から引き受けにいくのは、人から「求められたい」「必要とされたい」そんな感覚が根底にあるからです。
人から求められる、必要とされることで、「自分は必要とされる人間だ」と思えて、居場所を得ることが出来たり、人から見捨てられる不安が薄らいだり、無価値観を埋めることが出来るのです。
そもそも、「自分は居ても居なくても、どうでもいい存在」もしくは「自分は迷惑な存在、邪魔な存在、要らない存在」という自己否定、存在否定が自分の中にあるのです。
幼少期に親が望むような子ではなかった
親が求めていたのは
・後継ぎとなる長男だけ
・親が自慢できるような優秀な子だけ
・親のお世話をしてくれる子だけ
そして
・そもそも子どもを望んでいなかった
・親が自分自身にしか興味がなかった(他人に興味がなかった)
親が求める条件の時だけ、必要とされて見てくれる、関わってくれると親との繋がりを感じられるので、親が求めるような子になろうとするのです。
つまり、親が求める条件から外れている自分は、親から必要とされない要らん子、邪魔な子、どうでもいい子と思ってしまっているのです。
そして親から求められることがストレスの捌け口となる感情のゴミ箱の時だけとなったら、ゴミ箱として求められることで繋がりや関わり、存在を認めてもらえる、居場所が得られると思い、自分の気持ちを飲み込んで、親のストレスも飲み込み、ずっとゴミ箱をするのです。それを大人になっても同じように誰かのゴミ箱の役割をすることで「必要とされる」と感じて、渇望感を埋める生き方をします。
人から必要とされることで、自分という存在を感じられたり、渇望感を埋めていたという他者依存になるのです。
それぐらい、本当は親を求めていたし、自分という存在を認めて欲しかった、愛されたかった、見て欲しかったという渇望感でいっぱいなのです。
・私が女の子として産まれてきたから
・僕が次男として産まれてきたから
・勉強もスポーツも出来ないダメな子だから
・育ててもらってるから
親の不都合を自分が悪いと自己否定して、自分が親から必要とされていない現実を見ないようにしていますが、本当はたくさん感じているんです。
努力では変えられない性別に対するやるせない怒りや目の前で長男が大切にされている光景を見る屈辱感や親に対する恨み
なんで産まれてきたんだろうという虚しさや見てもらえない深い悲しみ
置物のように扱われて、いつもひとりぼっちで淋しい孤立感
がんばっても成果が出せず親の意に沿えない罪悪感
どれだけ自分が渇望感でいっぱいだったのか、どんな渇望感持っていたのかを先ずは知ることが大事だと思います。
そしてその渇望感や無価値観を一つづつ見ていき、自分で満たしていくことや、親の期待を背負うのを止めることで、人から過剰に求められることを求めずにすむし、ゴミ箱を求められても断ることができるので、人から頼みをに応えるかどうかも自分で選ぶことができるようになります。
何かお願いをする、求めること、求められることを望むことが悪いことではないのです。ただ頼み事をされた時、引き受ける動機が渇望感や欠乏感を満たすためではなく、心からお願いごとに応じたい、やりたい、力になりたいと主体的に思えて引き受けていけるようになっているかどうかだと思います。
それは、お互いに求めたり、それに応じたりして助け合う事は生きていく上でとても大切だし必要ななことだからだと私は思うからです。
お読みいただきありがとうございます。